POD | 生存率1%の脳幹出血と脳梗塞による失語症を克服した体験記

生存率1%の脳幹出血と脳梗塞による失語症を克服した体験記

多くの方に脳の病気の立ち向かい方を伝えるのが僕の使命だと思っています。

POD

はじめに

この度は、本書をお買い求めいただき誠にありがとうございました。本書は、生存率1%と言われた脳幹出血とすべての言葉を奪い去った脳梗塞から完全に立ち直った闘病記録で、僕が知る限り世界で初めての記録です。

僕は、2011年1月20日(当時28歳)の時に、脳動静脈奇形 破裂(AVM)による脳幹出血(延髄出血)を発症し、その 2年後の2013年3月15日(当時30歳)に、脳血管撮影検査の合併 症で、脳梗塞を発症した経験をもちます。

脳幹出血を発症した際には、昏睡状態となり呼吸をすること さえできなくなってしまいました。医師からは「生存率 1%」と言われておりましたが、奇跡的に回復をし、発症前とほとんど変わらないまでに回復することができました。

その他にも以下の症状を経験しましたが、そのすべてを乗り越えることができました。

嚥下障害、意識障害、左半身麻痺、左腕の痺れ、右半身の温 度感覚、失語症(文字が読めない書けない)、視野欠損、斜視、視力低下、視野狭小、ふらつき、独歩、しゃっくり、高次脳機能障害、記憶障害、めまい、失禁、頭痛、排尿障害.

本書を最後までご覧いただければ、患者を支えるご家族、ご友人知人の方、そして脳卒中患者の方にも、脳卒中を乗り越えるための具体的な行動がわかります。

一般的に脳の病気は、脳卒中の症状は人それぞれ、後遺症の重さ、回復の度合なども人それぞれと言われていますが、僕はそうは思っていません。正しい気持ち、正しい闘病生活、そして正しいサポートをすることで、必ず乗り越えることができる病だと考えています。

なぜこんなことが言えるのかといいますと、僕はごくごくどこにでもいる人間だったからです。身体能力が高かったわけでもありません。むしろ平均以下の体力しかもちあわせていない人間だったからです。

そのようなごくごく普通の人間にでも2度も奇跡と呼ばれる回復をすることができたのです。ですから、きっとあなたも僕のように乗り越えることができる!そう信じています。

■一筋の光になりたい

今、まさに暗闇の中でその奇跡を目指している人たちはたくさんいます。
それどころか、その奇跡を見つけ出すことができずに、暗闇の中でうずくまっている人もたくさんいるはずです。

闘病中の本人、家族、恋人、親しい友人、かけがえのない仲間。
暗闇で迷い、苦しみ、希望の光が見いだせない人たち。
そうなっても仕方のない状況で、もがき、あがき、抜け出そうと努力する人たち。

僕は、そういう人たちにとっての、一筋の光になりたい。
希望の光となって、僕が見つけたのと同じようなあなたの奇跡を照らし出してあげたい。

そう願い本書を執筆することになりました。

僕は生存率1%の奇跡を見つけました。
そしてそれを手にしました。

今度は、あなたが奇跡を見つけ出し、それをつかみ取る。
そんなお手伝いを、僕にさせてくださいませんか?

本書と出会い、救われる人がたくさんでてくることを心より願います。
上西 信也

 

謝辞

「私たちは誰かのために何かを行動する時、信じられない力 を出すことができる!」

僕はこの言葉を信じています。

「顔」が見えない書籍であるからこそ、僕の「文 章」と「対応」で自分自身を表現させていただきます。

数多くある情報の中から本書を選んでいただいたあなたに僕の「文章」を通して「満足」してもらえますように。

「謙虚」と「感謝」の気持ちを決して忘れずに。

 

 脳幹出血発症

2011年1月20日

僕、上西信也は大阪府在住の27歳
システムエンジニアとして、営業からシステムの設計、プログラミングをしながら忙しくも充実した日々を過ごしていました。

ちょうどその頃、2年ほど付き合った彼女と結婚することを決め、結婚式場探しをしていました。

そして、いくつかの式場を巡ったうち、大阪の難波にある結婚式場が、立地も条件も良かったので大安の日で仮予約をしました。

その日は遅くなったので、ファミレスで夕食をとり、結婚式に向けて誰を呼ぼうか、ドレスやお花、料理はどのグレードにしようか。なんておそらく歴代の結婚式をあげてきた人たちと同じような会話をしていたと思います。

けれども、僕たちは計画通りいかなくなってしまったのです。

なぜなら、その会話が終わった6時間後に、僕はAMV(脳動静脈奇形破裂)による脳幹出血を発症してしまうからです。

 

脳幹出血発症

帰宅するとすでに日付は変わっていました。翌日から仕事でしたが、結婚式の仮予約をしたあとなので、若干興奮状態にあり簡単には寝れそうにないなと感じたので、睡眠薬代わりに赤ワインを飲んで寝ようと考えました。

何口か飲んでいるうちに、良い感じに眠気が出てきました。

「ふぁー。これでぐっすりと寝むれそうだな。」と思ったとき、急に風邪のような体のだるさがでてきました。

そのときは「寒い中をずっと歩いていたから風邪でも引いたのかな?」と、特に心配することなく再度ベッドに入ったのですが、分刻みでどんどんと体調が悪くなっていきます。

ついには、吐き気もしてきたので、ベッドから降りてトイレに行こうとするんですが、平衡感覚がなくなったのか、壁伝いにしか歩けなくなっていたのです。

「これは悪酒にあたってしまったな」と赤ワインを飲んだことを後悔しました。

そんな気持ちでいるから「寝たら治るさ」と再度ベッドに入りました。

ただ、体調はさらに悪化していき、うなされるようになってきます。

そして夢なのか覚醒してしまったのかわかりませんが「斧を持った死神が僕を切りつけたのです!」

「ズバッ!」

その瞬間、体に雷が落ちたような衝撃が走り、手足が硬直し始めました。
(まるで感電しているような感覚でした)

一瞬でこれはただ事ではない!ことを察しました。
幸い当時は、実家暮らしでしたので、隣の部屋にいる母に携帯で助けを求めます。

母が眠たい目をこすりながら「どうしたの?」と聞きます。
僕は「ただ事ではない、すぐに救急車を呼んで!」と母に伝えます。

母は訳も分からず、救急車を呼んでくれました。
10分ほどすると遠くの方から、救急車のサイレンの音が聞こえ始めます。

ダダダダダっと救急隊員が入ってきて「どうしたのですか?大丈夫ですか?」と話かけてくれます。

僕は「いや、ちょっと赤ワインを飲んでから・・・」と伝えようとするのですが、すでに呂律が回っていなくて何を喋っているのか伝わりません。

すると、救急隊員は慣れた手つきで僕の後頭部を触り

「おそらく脳出血ですね。すぐに搬送します」と一言。

僕はその一言で、一瞬にして頭が真っ白になってしまいました。

「え!脳出血!」
「もう死んじゃうの!」
「え!何で!?脳出血ってお年寄りの病気だよね?」
「さっき、結婚式の仮予約してきたところなのに!」
「このタイミングで死ぬのは嫌だーーー!」

もう頭の中は大パニックです。
夢であって欲しい、夢であって欲しいと願いますが、残念ながら夢ではありません。

もうこの時点で、僕の体は僕の意志通りに動かなくなっていました。
少しでも腕を動かそうとするなら、天井めがけて腕が上がってしまったり。
足も自分の意思とは違う方向に動いてしまうのです。

歩くことはおろか、立ち上がることすらできなくなっていました。
しかたなく、救急隊員に、抱き抱えられるように担架に乗せてもらいます。

救急車に乗せられる前にちょうど夜空がぱっと見えました。
「あー、この星空を見ることができるのもこれで最後か・・・」と悲しくなったのを覚えています。

救急車に乗せられるやいなや、酸素マスクを口に当てられました。
搬送先の病院はすでに決まっていたようで、すぐにサイレンを鳴らして走り始めます。

車が走るたびに揺れますが、その揺れが僕の脳をさらに壊してきます。

突如、ダンプカーに踏まれたかのような強烈な頭痛が僕を襲いました。
そして、心臓が破裂するほど鼓動しはじめ、目もグルグルと回りはじめました。

さらに体が燃えるように熱くなってきます。
酸素マスクを当てられているはずなのに、ぜんぜん酸素を吸うこともできなくなり意識が遠のいてきました。

救急隊員にもう駄目だと目で合図を送ると、ペンライトを目に当てて瞳孔を確認しはじめました。

「もう限界だ。これ以上は持たない・・・」

ふと隣を見ると、悲痛なまなざしで母が僕を見ていました。

僕は母に「ごめんよ。子供が先に逝くなんて、なんて親不孝な子供なんだろうね。今までありがとう・・・」そう心の中で言い残して意識を失いました。

病名判明

次に記憶があるのは、意識を失ってから10日ほど経ってからのことです。

それまでのことについては、母と妻に聞いた話をもとに再現します。

最初に運ばれた病院は、隣町の町病院でした。
搬送後すぐにCTスキャンなどを使っての画像診断が行われ、その際に告げられた病名は「くも膜下出血」。

ただ、運ばれた病院では対応しきれないと言われ、もう少し大きな病院(大阪の市立病院)へ転院することが決まりました。

転院するまでの間に、どんな処置をされたのかは分からりませんが、5時間後に新たな病院へ緊急搬送されることになります。

病名判明

転院後、脳幹出血の影響で、脳室に出血が流れ込み、水を外に排出できなくなっているため、頭部にチューブを入れる手術(ドレナージ)が施されました。

その後、出血した所にカテーテル検査が行われました。
数十分後、ドクターが「病名がはっきりとわかりました」と母と妻を診察室に呼び集めました。

「息子さんは、くも膜下出血ではありませんでした。」

その言葉を聞いて、母も妻も少しだけほっとした様子浮かべたようです。
ですが、ドクターは間髪入れずに

「いえ、安心はできません。息子さんは脳動静脈奇形(AVM)破裂による脳幹出血を発症しています。脳幹出血は、くも膜下出血と同程度、いや場合によっては、くも膜下出血を上回る危険な出血です。」

「というのも、脳幹は呼吸機能といった生命維持に重要な役割を持っているからです。現に息子さんは自発呼吸が非常に弱く、人工呼吸を外すと死んでしまう状況となっています。」

さらに
「命が助かるだけでも幸いだと思ってください。ベッドから起き上がることはおろか、家に帰ることはまずできないでしょう。後々は施設での生活となると思います。」

「今のところ手術はできません。延髄の中の血管のため血圧を上げないように鎮静剤を投与だけは行いました。」

結婚式場の準備、これから結婚の結婚生活、新婚旅行、子供を産んで家庭円満な生活・・・。

すぐそこまで来ていた新生活が、一瞬にして崩れ去った妻は、泣き崩れて診察室から飛び出てしまったそうです。

後になって聞いた話ですが、僕が倒れてから数日間は、妻が電車のホームから飛び込まないか、妻のお母さんはとても心配していたそうです。

【コラム】脳幹出血とは

脳幹出血とは、呼吸や血圧を保つなどの生命活動の基本になる脳幹部位に生じる出血のことを指します。

脳幹出血を発症すると、吐き気やめまい、頭痛などの症状が突然現れます。

脳幹部には数多くの神経が集まっています。特に呼吸や血液循環などの生命活動を送るうえで基本的な神経細胞が集中していることと関連して、脳幹出血が生じると経過が重篤になることが強く懸念されます。

出血量が多い場合などには、そのまま意識消失、呼吸停止が起こり、命に関わることもあります。また、神経学的な後遺症を残すことも懸念されます。たとえば、手足が動かず眼球のみが動く状況に陥るようなケースもあります。

【コラム】脳動脈奇形(AVM)とは

脳動静脈奇形(AVM)とは、脳内の動脈と静脈と直接つながっており、大量の血液が流れています。胎児期(出生前)から小児期にかけて発生することがほとんどで、成人以降に新たに発生することはほとんどありません。

僕は発症するまで、自分の脳内に脳動静脈奇形(AVM)が存在していることを知りませんでした。むしろ、それはそれで良かったのかもしれません。

なぜなら、脳検査で見つかっても脳幹部に存在することを知るだけで、恐らく治療のリスクを考えると様子見にしていたと思うからです。(治療のために手術を選らんだ場合、それなりに高い確率で自発呼吸ができなくなるなど、重篤な後遺症が発生するためです)

ですから知らぬが仏で、いつ発症するか分からない時限爆弾を闇雲に抱えなくて良かったと思っています。

 

昏睡状態

ドクターに衝撃的な事実を告げられた母と妻でしたが、僕はそんなことも知らずに昏睡状態のままでした。

脳幹出血発症後数日間は、ICU(集中治療室)で過ごしていたようですが、面会に来てくれた人に対して、頷いたり、文字盤を指差して会話をしていたそうです。ですが、僕はそんな記憶全くありません。このように脳の病気をした後は、結構こういうことがあるようです。

数日後、ICUから重症部屋(個室)に移動されました。

この重症部屋は、ナースステーションのすぐ隣にあり、僕のように自発呼吸が弱くかつ嚥下障害(飲み込み障害)のような症状をもっている人を預け入れる部屋となっていました。

この時からうっすらと記憶が出てきて、筆談での会話ができるようになります。

ただ、手足が動かないようにロープで固定されていて、これが悪夢となって毎日うなされていたのを覚えています。

なぜ、手足を固定されていたかというと、人工呼吸器を外してしまうのからです。

救急車で運ばれたので、病院にいることはなんとなく理解していたのですが、飲食を一切出してくらない状況をまったく理解できなかったのです。

とにかく喉がカラカラで死にそうな思いです。水を飲まして欲しい!水を飲まして欲しい!と何度も訴えても飲ましてくれないのです。

「いったいなんで飲ましてくれないんだ!水一滴くらい舌につけてくれよ!」と筆談で訴えましたがダメでした。

そのときには理解できませんでしたが、僕は嚥下障害(飲み込み障害)を発症していて、水を少しでも口にすると誤嚥してしまい、肺炎を起こしてしまう可能性があったのです。

そんな事情があることを知らない僕のイライラは最高潮に達します。
そして、あるとき気管切開をしている首元に刺さっているチューブ(人口呼吸)を抜いたのです。

すると、「プシュー!」と酸素が抜ける音がし、次に警報が鳴り、看護師さんが焦って駆け付けることを知ります。

即座に「よし、これは水を飲ましてくれない抗議に使えるぞ。」と考えました。

また次の日、強烈な喉の渇きが僕を襲います。
枕元に置いていたペンを麻痺していない側の手で持ち、「みずをのましてほしい」と書きます。

「これで準備完了、やるか」とまた首元に刺さっているチューブを抜きました。

昨日と同じように、「プシュー!」と酸素が抜ける音がし、次に警報が鳴り、看護師さんが焦って駆け付けてくれます。

そのタイミングを見計らって、事前に準備していた「みずをのましてほしい」のメモを看護師さんに見せます。

「よし!作戦成功!きっと僕の思いが伝わるはずだ」と、内心水が出てくることを期待していましたが、両手両足をロープで縛られる羽目になったのです。

 

肺炎そしてベッドからダイブ

痰を自分の力で出すことが出来ないので、看護師さんが駆けつけてくれてチューブを、使って吸引してくれていました。

そんなある日、数日間に渡って40度近くの高熱を出してしまいます。

医師の診断によると、痰が肺に入ってしまうことによる肺炎を発症しているとのこと。
脳卒中を発症すると、僕のように肺炎になる人は少なくないそうです。

脳幹出血と肺炎のダブルのしんどさを経験することになったのです。

そしてあまりにもしんどさに、脳が覚醒し、自分は歩くことができると勘違いし、トイレに行こうとベッドをよじ登りました。(ちなみにこの頃は、おしっこは尿瓶で、うんちは寝たまま洗面器にお尻を当てられた状態でしていました)

ずっと寝た状態での生活だし、左半身は麻痺に近いものですから、ベッドの手すりを跨いだあたりでダイブするような形で落下してしまったのです。

ドスン!

異変に気付いた看護師さんが、走って駆けつけてくれます。

それからは、またベッドから落ちないように、体を動かしすぎると警報がなる装置を装着されることとなりました。

 

口から食べてみたい

急性期の脳卒中患者の半数にみられる合併症で、嚥下(えんげ)障害というものがあります。嚥下障害を簡単に説明すると、食べ物を上手に飲み込めず、間違って肺に入ってしまう状態のことを言います。

この摂食嚥下障害は、急性期(7日後)には約 50%にみられる合併症であると言われています。なお2週間後には約10~20%程度にまで減少すると言われていますが、僕の場合はなかなか症状が治まりませんでした。結局は2カ月ほど嚥下障害で苦しんでいました。

嚥下障害がでている間は、まったく飲食ができないので、鼻から流動食を流し込んでいました。たしかに栄養は足りている状態なので死ぬことはありませんが、常に空腹状態なため、頭もぼーっとしていました。人間は口から飲食しないと生きる気力が湧きません。

なお、嚥下障害が出ているときに飲食をすると、誤嚥して肺炎を起こしてしまう可能性があります。肺炎は、日本人の死因第3位を占めると言われています。

そのため、水一滴も口にすることができない状況が続きました。
本当に辛かったです。

ですから、「入院中いちばん辛かったことは何ですか?」と聞かれると、間違いなく「嚥下障害」と答えます。それほど辛かった記憶があります。

ですが、幸いにして発症から2ヶ月ほど経ったあたりで、徐々に治まってきました。最初は、ゼリーからテストしていくのですが、2カ月ぶりに食べたあの触感は今でも忘れることはありません。

・嚥下障害を治すには?

「絶対に食べられるようになる!」と念じる

嘘みたいな話かもしれませんが、心の底から強烈に食べたい!と思い続けることが大切です。僕は「絶対に食べられるようになる!」「絶対に水を飲めるようになる!」と、ずっと頭の中で叫んでいました。

これは「思考は現実化する」「病は気から」という言葉が当てはまります。

酷かもしれませんが、大好物の食べ物の写真を目の前に置いたり、触ったり、匂いを嗅がすのも良いでしょう。食べたいという気持ちが強くなります。

また紙に「絶対に食べられるようになる!」「絶対に水を飲めるようになる!」と書いて、毎日その文字を見ることも効果的だと思います。

 

リハビリ開始!

脳幹出血発症から●●日

自発呼吸が完全にできた状態でないため、酸素ボンベを付けた状態で、リハビリルームでリハビリをすることが決まりました。

それまでは、腕や手先が痙縮(固まらないように)しないように、ベッドサイドでリハビリの先生が、僕の腕や関節などを伸ばしてくれるリハビリだったので、かなりの進歩です。

時間になったので、リハビリの先生が僕の病室まで来てくれました。全然立ち上がることすらできない僕は、車椅子に抱っこしてもらう形で乗せてもらいますが、ここでまさかの気を失ってしまいます。

血圧の低下が原因だったそうですが、もう車椅子に乗ることすらできないほどに体力が落ちてしまっていたのです。

それから数日間は、筋肉量を少しでも増やして再挑戦です。
ベッドサイドで足を動かしたり、おしりを上げるトレーニングを行いました。

その結果、車椅子に乗ってリハビリルームまで辿り着くことができました。

汗をかくほどのリハビリ

初めてのリハビリは、作業療法(OT)でした。

当初聞いていた作業療法(OT)とは、手先の動きをメインに私生活をそつなくことすことを目的としたリハビリだと聞いてましたが、実際はなかなか過酷なものでした。これはリハビリの先生の方針によって、結構変わってくるところなのかもしれませんが、毎回額に汗がかくほどの運動量でした。

今思えば、最初はこれくらいの大変さがあっても良いのではないかと思っています。

リハビリは何をするかより量が大事

リハビリには、○○法とか○○病院のリハビリが良いと業界では言われておりますが、僕はそうは思っていません。正直どこのリハビリ病院でリハビリを受けたとしても、同じように回復できると考えています。

リハビリはどんな内容をやるかよりも、どれだけ自主練習を行うかにかかってくると思います。

高校球児が甲子園を目指すといった目標があるのであれば、それこそ有名で実績のある学校に入部した方がよいかもしれませんが、脳卒中の後遺症はそこまでハードルは高くありません。

草野球でそれなりにうまくできれば良いレベルだと考えています。そもそも日常生活を送るレベルのリハビリなので、そこまで有名な方法に頼る必要もないと考えています。

偉そうなことを言っていますが、僕は左半身マヒを克服できましたし、その他にも、嚥下障害、意識障害、片麻痺、しびれ、右半身の温度感覚欠如、失語症(文字が読めない書けない)、視野欠損、斜視、視力低下、視野狭小、ふらつき、独歩、しゃっくり、高次脳機能障害、記憶障害、めまい、失禁、頭痛、排尿障害などの症状を経験しましたが、そのすべてを乗り越えることができた実績がありまので間違いないと思います。

それよりも、どれだけ自主練習を行えるかが重要だと考えています。
リハビリの先生と行うリハビリは、どんな自主練習をしたらいいのかを教えてくれる時間だと思うことです。

入院中というのは、基本的に時間を持て余しています。その時に、何をするのかを考えないといけません。リハビリの先生とのリハビリ以外の時間をただテレビを見て過ごすのか、少しでも時間があれば自主練習をおこなうのか?

ちょっとした努力の積み重ねが、後に大きな結果の違いを生み出してしまうのです。

また、リハビリの世界では急性期から回復期にかけてが一番回復しやすいと言われています。
僕はまさにその通りだと思っています。

飛行機が離陸するときには、もの凄いエネルギーが必要です。ですが、一度空を飛んでしまうと、そこまでエネルギーを使わずに飛び続けることができます。リハビリもこれと同じようなものだと考えています。

 

目のリハビリ

母から聞いた話ですが、脳幹出血で緊急搬送されたとき、ICUで入院しているときに、僕の両目はまるでメリーゴーランドのようにグルグルと回っていたそうです。

ICUを出たころには、グルグル回るのはおさまりましたが、すべてのものが2重に見えるようになってしまいました。右目と左目の黒目がまっすぐならない斜視にもなっていました。

目が不自由になると何かと不便で、率直に今後の私生活が大変になるだろうなと感じたので、なんとかして治さないといけないと感じました。

しかし、目のリハビリはPTでもOTでもSTでもないと言われましたので、仕方なく独自にあみだしたリハビリ方法を行いました。それが良かったのか、約2ヶ月後には元通りにまで回復することができました。

とは言ってもすべての症状が治ったのかと言うとそうでもなくて、眼振は後遺症として残ってしまいました。ただそれでも日常生活にそこまで支障はでていないので、それはそれでOKなのかと考えています。

この記事では、僕が独自にあみだした目のリハビリ方法について解説いたします。

この方法は、脳幹出血を発症した際も、2年後に脳梗塞を発症した際にも使っていた方法なので、視力の後遺症に悩み苦しんでいる方は、参考になさってください。

僕がやったことは以下の3つです。

1.遠くの景色と手元の物を交互に見る
2.眼球の筋肉をトレーニングする
3.コットンに付けた複合ミネラルをまぶたの上に乗せる

特別に難しことでもないので、誰にもでも出来ると思います。
ただ、回復を信じてやり続けることができるのかどうかが大事かもしれません。

1.遠くの景色と手元の物を交互に見る

「アフリカの原住民は視力が6.0ある」
「視力の低下は眼球に筋肉が弱まって調整できないからだ」

僕は視力に関してそのようなイメージを持っています。

ならば、遠くの景色と近くの景色を交互に見るトレーニングをすれば治るんじゃないかと、かなり安易な考え方ではあります、このトレーニングを開始しました。
暇があれば手元のテーブルやペンを10秒ほど見た後に、窓の外から見える山やビルをじーっと見るというリハビリを、1日に何十回も行いました。

ただし、このトレーニングはやりすぎると頭が痛くなってしまいますので、やりすぎには注意が必要です。
僕はだいたい1か月ほどで効果があらわれてきました。

2.眼球の筋肉をトレーニングする

マジカルアイと呼ばれる本を使ってのトレーニング法です。
このような画像を見たことはありませんか?

ある焦点になったときに立体的に見える画像です。

「マジカル・アイ」の見方には”平行法”と”交差法”という2つの見方があります。いずれの見 方でも視力回復の効果はありますが、初心者には”平行法”で見る方が適しているかもしれません。

「1.遠くの景色と近くの物を交互に見える」よりも、さらに眼球の筋肉を酷使するので、トレーニング効果があるのではないかと思いやっていました。

”平衡法”は比較的簡単にできましたが、”交差法”はコツを掴むまでにひと月ほど時間が掛かりました。ちなみに”平衡法”は飛び出たように見えます。”交差法”は逆に凹んで見えます。
どちらの方法が良いかはさほど重要ではないと思いますが、”平衡法”と”交差法”を交互に見る練習は効果があったんじゃないかと思います。

ただ、やっぱりコツコツ毎日やることが大事だと思います。このトレーニングも、かなり目の筋肉を酷使するので、やりすぎるとかなり疲れますし、頭痛もするので、やりすぎには注意してください。

3.コットンに付けた複合ミネラルをまぶたの上に乗せる

僕がICUにいたときに、親戚のおじさんが自然治癒力が高まると薦めてくれたのが、複合ミネラルという、何十種類のミネラル成分が配合された飲料水です。

ミネラルの成分は、肌からも吸収されると聞いたので、コットンにミネラルを塗布してまぶたの上にのせるようにしていました。

リハビリ効果を高めるためには複合ミネラルの接種が大事だと思っています。

 

洗面器でうんち

ほぼ寝たきりの状態だった僕は、おしっこの場合は、おちんちんの先に管を刺して、少しでもおしっこが溜まったら勝手に尿瓶に流れるようになっていました。

大がしたくなったら、ナースコールで看護師さんを呼び、お尻をあげて洗面器の上でしていました。ふき取りは看護師さんがふき取ってくれていました。

大に関してはおむつでしても良いよと言われていたのですが、おしりにべっちょりと付くのが嫌だったので、洗面器でお願いしていたのです。

嚥下障害の影響で、飲食は流動食のみだったので、便もほとんど水っぽいものでした。

それでも看護師さんは嫌な顔ひとつせずに対応してくれました。
本当に頭が下がる思いです。

これだけ看護してもらっているんだから、元気にならないと!と力をくれましたね。
本当、看護師さんの存在って大きいなって感じました。
10. いざリハビリ病院へ!

2011年3月11日

この日は、発症からお世話になっていた急性期病院を転院し、脳卒中を専門としたリハビリ病院へ転院する日でした。

朝、お別れの際にお世話になったドクター、看護師さん、そして同じ病室で過ごした仲間と別れの挨拶をし、リハビリ病院へ車で向かいます。

別れ際にドクターに言われた言葉が印象的で
「脳にダメージを受けた機能は、もう二度と戻らない。だけどリハビリをすることで、生きている脳神経細胞が補ってくる。だからしっかりとリハビリをしてください。絶対によくなりますから、絶対に歩けるようになりますから」と。

僕はなんとか歩行器で歩く状態にまで回復していただけど、支えなしで歩くことなんてまだ先のことだと思っていたので、本当に勇気と希望を持つことができました。

そうこうしている内に、リハビリ病院へ着きます。
このリハビリ病院は、ボバース法を取り入れたものらしく、脳卒中のリハビリの世界では、結構有名らしいです。