闘病中一番身近にいてくれた母との対談

母との対談内容を記事にしました。

この記事を読むことで、患者本人にとっても、患者を支える家族にとっても、脳卒中の後遺症を克服していくうえで、何が重要で、何が重要でないのか、まず何をすべきで、次に何をすべきなのか、が明確になる事をお約束します。

母は、僕が脳幹出血で倒れた時も、またカテーテル検査の合併症で、失語症になってしまったときにも隣にいてくれました。そして、そこからの驚異的な回復の様子もずっと隣で見ていました。

そんな母との対談内容は、まさしく本書の中でも最も価値の高い情報だと自負しております。

僕は、この音声を聞くことで多くの人の手助けができると信じてやみません。

長丁場の内容にはなりますが、ぜひご一読いただければと思います。

音声の文字書き起こし

僕:「こんにちは、脳幹出血と脳梗塞の後遺症を克服した上西です。今日は隣に僕の母が来てまして、ちょっと僕と母との対談動画を撮っていきたいと思いますので、何か病気の闘病生活、入院生活の参考にしていただければと思います。はい。では母、「こんにちは」

母:こんにちは

僕:名前は(笑) お名前は(笑)

母:上西信也の母です。

僕:上西真知子さんですね。はい。えーっと僕が2011年1月20日に脳幹出血になったと思うんですけれども、たぶんあのとき夜中だったと思うんですけれども、母に連絡したときどんな気分でした?
母:最初はちょっと信じられないというか、まさかという感じでした。
僕:その救急車すぐに呼んでくれたと思うんですけれども、うーん、何だったかな脳出血だと思った?

母:最初は脳出血か、それともちょっとワインを飲んだとか言ってたので

僕:あー、そうやったね

母:ちょっと日頃からあまり飲まない子が飲んだので、脳出血かそれとも、あのー

僕:脳出血…

母:ちょっと酔ってるのかなという、ちょっとあまり信じること、ちょっと自分の頭のなかでは、ちょっと心配なようで、軽~くちょっと考えてしまっているところもありました。

僕:まぁ、現実から逃げたいというか、僕も、まさか脳出血になるなんて思ってなかったから、その救急隊が来て、「もう、これ脳出血ですね~」って言われた時はすごいショックやったし、だんだん体もおかしくなっていって、左手とかも動かんようになって、左足も動かんようになって、ついには言葉も喋られへんようになってから、あ~ついにこれは本当に脳出血やなって自覚して、まぁ、早く呼んで良かったね~って話しやんね。今から考えると

母:そうですね~、まさか我が子がこういう病気になるとは信じられなくって、救急車で運ばれて、病院行って、処置してもらってるときも、何か飲み過ぎ、飲み過ぎてまた元気な声出して戻ってくるんじゃないかとか、ちょっと軽~く考えてたり、でもすごい不安で不安で仕方なかったですね

僕:僕は救急車呼んでもらって、まぁストレッチャーに乗せられて救急車ですぐに搬送されたけど、その搬送されたときに、何かこの何だろう、よくドラマで出てくる瞳孔を、目の瞳孔を確認するのと、急に酸素マスクを当てられた瞬間に「あぁ、本当に死ぬんだ」って、で、救急車走り出してたぶん一分後ぐらいには意識を失ったんかな。その時に母がいて、何かもう母の顔ももう見えないくらいにグルグル目が回ってて、で、まぁ、なんか「ありがとう」って言って、死んで、ちゃう、意識を失っていったんちゃうかな~。それが最後やったかな~。意識があって、うーん、で、たぶん最初行ったところの病院、まぁ守口生野病院っていうところは、僕全然意識がなくて、気付いたんが大阪の都島区にある総合医療センターていうところも、ほとんど、どれくらいかな意識が戻ったんは、

母:どのくらい~

僕:なんかICUにおったときとかも手を振っとったりなんかしてたんかな俺

母:なんか本人はしてましたけど、ちょっと訳のわからん言葉を、ちょっと夢というか夢のような見ているような話しをしたりとか

僕:で、まったくそのとき意識は、、、たぶん喋っとった、筆談とかしとったんかな?ICUのときとか?

母:せやね、筆談、話したり、筆談というかあれやね、ひらがなで、ひらがなの所を

僕:あー、指して?

母:指して、それで言葉に繋げてたという感じで、

僕:まったく記憶ないわ

母:筆談はまだそのときは、ICUでいてるときは筆談はまだまだ無理でした。

僕:あー、そうやってんや。

母:それから、何日後かな、一週間、どうやったかな?で、重篤、ICUを出て今度は重篤部屋の方に移動して

僕:そのICUおったとき、まったく記憶なかったけど、重症部屋のときはかすかな、たぶん色んな人来てくれたんやろうけど、ウチのその母親の声と今の嫁やね、妻の婚約者の時代の声は聞こえとったから、これたぶんいろんな意識ない人の患者さんの意見とか聞いても声とかは届いているみたいやね~。で、なんやろう、入院中もたぶんMRIとかも何回も入ったんちゃうかな?そのときの音も聞こえ取ったから、お経かなんかに聞こえとったんかな~?

母:そういえばね、MRI受けた後になんかお経が、お経が聞こえるっていうから、いやこの子なんかあのー、おかしなったん違うかな(笑)。心配してましたけども後で分かったらMRI受けたときは、まぁ、お経の木魚を叩く音にも聞こえる

僕:たぶんそやろね。それがMRIの音やったんやろな~。MRIなんか今まで受けたことないから、まったく分からんかったけど、まぁ、音は結構やっぱり聞こえてたというのは、もう、意識が無くても聞こえてたんで、まぁ、この音声聞いている人が意識ない患者さんがいるんだったら、声が届くっていうのを知って、理解したうえで話しかけて欲しいなぁとは思います。

僕:で、そのあとやね。まぁなんでそこまで、お医者さんからはあれかな?もうあかんと言われとったんかな?

母:もう、お医者さんには、たぶんもう一生病院生活、だから飲み込み障害がすごいきつかったんで、だからもう、家で連れて帰るのはたぶん、もし命が助かったとしても、もう一生病院での生活でしょうね。って言われてましたね。

僕:そうなんやー

母:だからあのー、手術、脳幹、えーと、脳幹出血だから脳幹のところの手術をするのに、ひとつ間違ったらこう命を落とす手術になってしまうから、どうしますか?ということでしたけど、

僕:恐いな

母:でも選択肢としたら、もう手術して、するしかない言う感じの方を選んだので、もしこれで命を落としてしまうかもしれないけども、それすることによって、あのーね、期待持てるんじゃないかなということで、迷いは全然なかったですよね。

僕:それは手術を受けるっていう?
母:手術受けて

僕:で、そっかー、究極の選択ではなかった、、、その放っておいてもしゃーない。

母:放っておいても、でも手術を受けることによってこの子が死んでしまういうこともありましたけれども、でも手術を受けないと一生、一生びくびくしながら、いつ死んでしまうか分からないと思って一生過ごすよりも、手術して元気になれる。どこまで元気になれるか分からないけれども、そっちの方を選びました。

僕:まぁ、おかげで手術を受けて、まぁ手術が成功したからといってたぶん後遺症まで治らんかったと思うんだけど、命は取り留めることができた。それはそう思うね。究極の選択ですね。

そのあとやね、まぁ、手術が終わった後に言うたら僕は、なんだろう意識がなかったしあんまり、一命取り留めてもらった後、結構体も重たかったし、たぶん動かんかったんちゃうかなほとんど、「麻痺してる」って言われ突端かな?左半身は?
母:そうやね。手術をした後も、えーっと、どんな感じだったかな?だからまだそのころは飲み込み障害が、だから水分も取れない、、、

僕:あーせやね。あれは大変やった。

母:ねぇ、だから手術してもどの程度回復できるのかというのが全然分からなくって、

僕:あの、嚥下障害は一番しんどかったかな~。水も一滴も飲まれへんし、めっちゃお腹空いてるし、あれは本当に地獄やったね。一番地獄やったで、それで個室におるときはまだましやったけど、その流動食の状態で、大部屋に四人部屋に移されて、ほんじゃ向かいの人がバリバリポテチ、ポテトチップス食べてるし、こっちは鼻から流動食。あれは本当に地獄やった(笑)。水も飲まれへんし、唇の皮もめっちゃ取れたよ。唇全部取れるくらい唇の皮取れたから、相当体重も何キロ落ちたんかな。20キロ、30キロは落ちたんちゃうかな。骨と皮やったもんな。あれはしんどかった。

母:せやね。そのぐらいのときかな。勝手にベッドから降りたとか?
僕:そうそう。覚醒?なんだろうね。しんどくって、たぶん肺炎なって、熱40度くらい出て、でしかも、なんだろう、自分が歩けると思ってたんやろうね。ベッドから降りて、トイレ行きたかったんやあれ、

母:あの時はまだまだ歩ける状態じゃ、、

僕:うん。ないと思う。

母:ね、なかったのにベッドから

僕:そう、腕の力、右腕の力はあったから這い上がれたと思う。左半身はそんな力ないから。登って降りようと思ったら、なぁ、

母:あれ、どんなんになったん?落ちたとか?それとも

僕:落ちてはない。足付こうと思ったら全然筋力無いから、そのまま崩れ落ちて、、、まさかやったね。看護師さんにだいぶ怒られたんちゃうかな。
母:そうやね(笑)

僕:そのあとは、脱出できひんようにくくられて、くくられてはないか、なんかムシ、警報機が鳴るような装置付けられて

母:あーあー、そういえば付けられていたね(笑)

僕:で、まぁ、なんだろう、そういう結構厳しい状態やったけど、まぁ、僕がここまで這い上がれて来たというのは、ひとつは、ひとつというか絶対にあるのは、たぶん一個も落ち込まへんかったことちゃうかな?と思ってて、

母:それは不思議やったね。

僕:もう、絶対こんなところで死んでたまるか!と思ってたし、絶対に克服できると、なんか分からへんけど、たぶんそのお医者さんからは直接言われてないけれども、たぶんかなり厳しい状態と言われとったんは、薄々感じとったけど、でも、なんか人生、生きていく中で、良いこともあれば悪いこともあるやんか、で、この病気ってたぶん一番下の底辺やから、絶対これ以上悪くならへんし、これを這い上がったら強くなれる、人間になれるんちゃうかな~と思ったから、そう頑張れたかな。

母:そやなー、落ち込むことはなかったし、こっちもこんだけ元気になれると思ってなかったから、心の中ではもう一生この子、障害を持った子を、生活していく、生活していかないといけないことで、それでどうだったかな。福祉の方とかは相談に行ったかな?

僕:行ってるかもしれないね。

母:この子と一緒にね。生活していくには経済的なものもあるし

僕:そやね。何年もたつとそりゃな~、どうなってたんやろ。考えると恐ろしいね。

母:こっちも何かな、いいながらもう心臓はバクバク、バクバクいう感じだったけど、でもそんなにこっちも落ち込むというのは、また落ち込むような余裕がなかったんかな。なかったと思うけど、でも、まぁこれも周りの人の手助け、力、家族とか、親戚、病院の医療関係の人

僕:あそこ良かったよね~。医療センター。看護師さん、ドクターみんな協力して

母:だから主治医の先生がすごい良かったな

僕:良かったね。まぁ、この後に脳幹出血の後に、まさかのカテーテル検査の合併症で脳梗塞を発症してしまった先生やねんけど、まぁそれでもあの先生のこと信頼してるから、あの先生にやったらまぁ死んでも、あの先生にやったら、手術して死んでもまぁしゃーないなーって諦めれるくらい信用してるかな~

母:でも、そういう信頼できる先生が主治医になってくれてるそういうのってすごい幸せ、ある意味幸せやわな

僕:あれも、たぶん、あの先生もたぶん他の人から見たらあかん先生なんかもしれへん。
母:どうなんやろうなぁ

僕:たぶん、結構、、、。たぶんな、こっち側が信頼を置いてるから先生も感じてたぶん信頼を置いてくれてると思うねん。

母:そやな

僕:だから持ちつ持たれつっていうか、結構なんかお医者さんに反抗する人とかって多いやんか、患者さんとか、あぁいうタイプはやっぱお医者さんからも信頼されへんから、

母:せやな。だからこっち、患者側も、

僕:そうやねん。

母:この子が病気、入院して1日か2日目ぐらいの時かな、家族で主治医先生からいろいろ説明受けるときも、入れ替わりこっち家族が同じメンバーで聞くんじゃなくって、一人が増えたりとかして、そしたらこう内容が分からなくってこう同じことを先生に尋ねると、先生もちょっとこう「同じことを聞くなよ」という感じで忙しいのに、ちょっと機嫌悪かったけどね。でも家族でいろいろこう聞きたいことをメモ書きにしていったりとか、でこっちも家族の方も一生懸命こう病気について知りたいとか、そういう風な家族側も真剣なんだというのを見せると先生ももう態度が180度位変わって、すごい忙しいのに丁寧に説明してくれたので、やっぱり病気と向き合うのには、家族も色々と勉強して真剣にならないと、先生も真剣にならない。だから先生を信頼して

僕:やっぱりその患者自身もやし、患者の家族の人もやっぱりなんやろう、先生に100%頼るんじゃなくて、ある程度勉強するなり、聞いたことをちゃんとメモして、やっぱり受け身、100%受け身の人ってやっぱり先生から嫌われると思うねんな。とくに先生とか勉強とできる。してきた人やから、そういう自分で考えない人、たぶん相当嫌いやと思うわ、

母:せやなー、あのときに先生が態度、いいようにメモというか聞きたいことメモして、みんなで話し合っているとやっぱり先生も態度変わったもんな。すごい真剣に先生もしてくれて、だからやっぱ病院で先生を信頼、家族も勉強して前向きに

僕:やっぱり先生と、、、

母:看護師さんやな!

僕:看護師さんやな~。看護師さんも大きいよな。

母:大きいよな、看護師さん、担当の看護師さんなんかも凄い良かったもんな

僕:そうそう。あれもな、運なんかもしれへんけどな、搬送された病院が、でもたぶん、やっぱり患者と家族の話し方によってはやっぱり態度は変わるから、持ちつ持たれつやね。

母:だから、まぁ、医療センターに運ばれて、だからこんだけ元気に

僕:せやね~

母:でこっちも先生もやし、看護師さんともすごいこう近い距離で、向こうも近い距離で接してくれたのでだからすごいもう、ねぇ、信頼関係、すごい心強かったよな。

僕:仕事でも病気の克服でもたぶん、やっぱり人との付き合いって信頼しかないから、

母:せやなー

僕:信頼関係をどれだけ築けるかていうところが大事。とは言っても、俺ここまで克服できたのは、そのおかんの力はかなり大きかったよ。

母:どうやろなー

僕:やっぱ覚えてるし、

母:家族みんなでやわな

僕:とくにおかんと、今の妻の支えはでかかったね。この人の為に頑張ろうと思うからな

母:せやなー

僕:だからあの、俺は結構そのなんやろ、いろんな人に毎日お見舞いに来てくれてたからまだ助けられたけど、入院してる人でも、本当に週に1回くらいしかお見舞いに来てくれてない人とかおるから、あーいう人らは本当に辛いやろうな、何をどう頑張ればいいんやろう、何を目標にして頑張ればいいんやろってところで、ちょっと気力は弱まるとは思うから、できるだけこの音声を聞いている人、家族の人多いから、お見舞いには、患者本人としてはね、頑張って行って欲しいな、遠くても

母:せやなー

僕:それが一番の薬やと思う、

母:せやな、お母さんも看護師さんとか周りに人からも、あの、な、看病している人の方が、今度は倒れる、病気になるから無理して来ないように、患者さん本人は病院で治療を受けてるんやから、だから家族の人はつい一生懸命行ってしまって、それで体崩すこともあるから、そこは気を付けてね~って言われたけど、でも行かないと気になるし、

僕:でもそこ難しいとこやな~。だって、看護師さんは実際に病気をしてないから、だから分からへんやん。

母:で、また合ってるところもあるけどな、そういう心配して、それでこうちょっとある程度日にち経った時に

僕:ガタくるかも

母:ガダちょっとね、体もやし、精神的に来るのを見てるからやろな。でもね、、行かないと、顔見ないと逆に心配やし、

僕:片道40分か50分位のところ、車で毎日来てくれて、ほぼ毎日やね。来てくれて、

母:そうやな。

僕:たまに腰痛めたりとか、でもあれだいぶ先かな、2~3か月先?

母:2か月後ぐらいか

僕:ま、とりあえず急性期の時は、ほんま毎日来てもらって、あれめっちゃ助かったわ、これ今でも、あれが無かったらかなりしんどかったと思う、寂しいし、

母:行かないと、後で、その時に行かないと、後で、後で行ったら良かったと思っても遅いから、ま、それは息子のためもあるけど、自分のため、親としての自分のためでやから行けたんかな

僕:じゃぁ、次に、気になるところは、聞いている人が気になるところは、リハビリやと思うねんけど、体を戻していくにあたって、ま、俺が考えることと思ってることと、おかんが周りから見てての印象みたいなのを言って欲しいねんけど。俺はリハビリ頑張ったと言っても、そうなんだろう、スポーツも今までやってきてなかったから甲子園球児みたいに頑張ってはないと思うねん。なんかスポーツ大会で優勝するぐらい

母:でもリハビリでも、医療センターでのリハビリかな、急性期のときは、もう見てたらもうこんなハードなこと、この…

僕:汗かいとったな(笑)

母:この座ったりとか、そんなにまだちゃんとできない子が、こんな厳しいリハビリをするのかな~っていうので、ビックリしたけれども、それをやってたかな。でもそこのスタッフの人もすごい優しく、

僕:あー、笑いながら

母:優しかった。でもリハビリの、本来のことは厳しく

僕:結構リハビリって優しいところもあるらしいねんて、病院でも、でもその優しさって微妙やなと思ってて、やるときやっとかないとあかんよね~

母:だから、あそこのリハビリは、医療センターのリハビリの先生は言葉とか顔の表情は優しく、する内容は

僕:超ハードやったね(笑)

母:超ハードやった

僕:なんかやたらとしんどかったイメージある。リハビリの時間になったらすごく気分が下がってたもん、さすがにこの俺でも、あのなんやろ、自衛隊みたいな感じ

母:でもこっちも傍で見てて「うわぁーすごー、こんなんをさすの」とか、でまたそれをやっている息子を見て凄いな、こんなんできるんやなーと思って、でも先生とかがこうにこやかな顔しながら、こうしてくれてるから、そういう感じやったからか、不安とかはなかったかな。

僕:たぶん、結構麻痺、麻痺まではいかんかったと思うけど、完全麻痺にはならんかったけど、結構手の動きは、たとえばその左半身、とくに左手を動かそうとしていたら、全然違うところにいっていたから、それを補正するのは、やっぱリハビリしかない。脳幹出血のときはそんな感じで乗り越えたかな。まぁ、ボバース病院やね、森ノ宮病院のボバース法の、あそこ行ったら結構ドーンと回復したよね。

母:でもあのときもまた毎日リハビリはあって、それ以外に自分でする自主練

僕:自主練やってたね~

母:それを結構やってたみたいよな~、

僕:なんか回復する人としない人って、あーいうリハビリ病院行ってたら結構分かってて、結構動かんかった人、手とか動かんかった人でも、退院したら結構、普通に動いている人もおったし、その差って、やっぱ自主トレーニングの差やと思うねん。

母:そやな、だからもうできるときに、できるときに頑張って自分の為に体を動かすということが大事やし、後で、後でいくらやる気になっても

僕:遅かったりするもんな

母:ちょっと遅かったりするから、だから急性期のときと後は、ある程度の期間でリハビリをして

僕:そういうたった半年だけ、発症してリハビリまでいくのが2か月位入院しとったら、残り4か月間だけしかタイムリミットはないから、まぁ、一般的にはそう言われてるけど、それだけの期間なぁ、頑張って本気で自分の体のことやから、結構テレビとか見て入院中、結構雑談してる人とかいっぱいおるけど、まぁ、そこは自分の体やし、周りの人の介護とかも大変やから、まぁ本気でやってる方が自分も納得できるし、家族の人も結局納得できて介護も協力的になってくれるんちゃうかな?そのときにサボっとったら介護する側も、ちょっと頑張れよ!と言ってしまうかもしれんよね。

母:せやなー

僕:やっぱり人の気持ちってすごく敏感やから、その辺はあるよな。で、結局、歩けるようになって退院したけど、8ヶ月位で退院したけど、職場復帰もして、職場まで歩いていったけど、通勤約一時間くらいかけて20分位かけて、40分位かけてかな、電車20分乗っていったけど、最初は横歩きみたいな感じ、杖歩行でもフラフラしてるし、「ビックリした」って言われてて同僚とかに、「大丈夫?こんなんで来て?」って言われて(笑)
まぁ、覚えてるかな、でもとりあえず歩く僕生活が一番のリハビリやって思って、割り切って、頑張って歩いたら5年経った今、ほとんど分からへんよね?

母:そうやな
僕:分からへんし、自転車にも乗れるようになったしね。

母:それはビックリやね~

僕:リハビリ病院の時に自転車乗ったけど、思いっきりこけたからね。2回くらいこけたからね。リハビリの先生があんなん、リハビリ中にあんなにこけたら、リハビリの先生もだいぶ怒られるんやろうけど、内緒にしとったけど、絶対に自転車は無理やと思ったもんね、綱渡りみたいやったけど、やっぱり継続は力なりかな。まぁ、それで戻ってきたと、じゃぁ、ちょっと話を変えて検査入院をしたやんか?

母:あーあー、ね、

僕:あのときは本当にまさかやったけど、

母:ほんまやな~

僕:あのー、リスクは高いと言われれて、まぁ、カテーテル検査で脳幹に出血したところにカテーテル、造影剤流してCTで写して、脳幹出血発症した時の血流状態を見る検査をしたんですけれども、そこでまさかのね、脳梗塞やね、あのとき合併症という言葉を知らんかったから、医療事故としか思わんかったけど、

母:だから、若い人はならないとかって言ってたけど、でもリスクは、その造影剤の影響で脳梗塞を発症する場合もあるというのは聞いていたけど、まさかと思ってた

僕:他人事と思ってたよね。自分の検査やったけど、まさかなると思わんかったよね。で、なにより驚いたんが、信頼している医者じゃなくて、研修医みたいな人が、医療の発展のためには仕方ないんやろうけど、もちろんその助手として主治医がおって、本当の執刀はその研修医みたいな人がやってくれて、最初から逃げ出したいと思ってたもんね。

手術台、検査と言ってもあんなん手術やから、すごいよ。看護師さんみたいな人が6人くらいおって、で、執刀する研修医と、あと造影剤流す人とか、CTを撮る人とか、8人か10人位おって、で検査中のモニターとかも10個位あるからね。ほんで、足の動脈からカテーテル入れるから、血が吹き飛ばんようにビニールで覆われてたからね。2メートルくらいの、

母:すごいね。

僕:めっちゃ怖いよ。逃げ出したい気持ちやったけど、あれはあれで結構問題やと思うけどな。だってその先生とお願いしますってサインしてる訳やから、いくらそれはやっぱり言わなあかんよね。全然違う人が執刀するんやったら、

母:なー、うーん、

僕:患者の意見としては、それは思うね。前、違う病院の講演会した時の看護部長にそういう話をしたら、それは医療のおかしいところです。そこは直さなあかんって言ってたから、ちゃんと、その主治医と契約したことやから、違う人が執刀するのは、それはやっぱり問題やから、「うちの病院でもちゃんと説明して、それは看護師がちゃんと説明してないから悪い」って言ってたけど、まだまだ医療業界ってそういうところがあるんやな。話はちょっと脱線しましたが、あのときはだって、検査は一時間で終わるのに検査終わったら頭めっちゃ痛いし、目片目、右目消えてるし、見えへんようになってるし、

母:せやな戻ってきてちょっとしてから

僕:頭死ぬほどいたいし、いきなり検査終わったらMRIに入れられて、いきなり脳梗塞やったもんね。

母:ま、あれはまさかよね。

僕:まさかやわ。本間この目の視力どうしてくれんねん!って本間怒鳴りたかった。まぁ、びっくりしたね。

母:言葉も?

僕:そう、その日の晩に携帯で、そうそう婚約者に「ありがとう」とメール打とうとしても打たれへんし、文字読まれへんし、びっくり!みたいな。

母:だから、その、あくる日とか「ひらがな」?童話買ってきて、それも読まれない?

僕:読まれへんかった。あれもたぶん、放置しとったらリハビリせーへんかったら、たぶん覚えられへんままに終わってたんちゃうかな、と思うと怖いな。

母:ほんまやなー

僕:でも、ここで一つ言えることは、やっぱり急性期のときのリハビリの量やと思う

母:そやな。

僕:だって、入院生活って基本暇やから、朝から晩まで時間あるわけやから、で、STとかリハビリとかも1時間位しかないし、残り起きてる時間で言ったら9時間くらい、何時間かあるやんか、そのあいだに何をするかやねんな。俺ずっと漢字の書きうつしとか、ひらがなやってたけど、退院したからは、本、結構真面目な大人の本を、2冊3冊ペースで読んでたからね。内容分からず、とりあえず文字を覚える。半年間でたぶん300冊か400冊くらいは図書館に借りて読んだから、結構リハビリ頑張ってる人って、いろんな人の意見を聞くねんけど、その「頑張ってます」という言葉には、なんやろ、結構なんていうんかな、抽象的というかぼやっとしていて、「頑張ってます」って、本10冊読むのも頑張ってますやし、本300冊読んでる人も頑張ってますやんか、やっぱりその絶対量が少なかったら、なかなかいかへんと思うねんな。リハビリして治る、絶対に治るっていう訳じゃないけど、やっぱある程度の量はいると思うねんな。

母:体のリハビリも動かさないといけないし、また頭、思考、そういう風なのも頭を使わないと考えたり、それすることによって、ちょっと障害を受けているところが戻ってくる、回復するような
僕:だって脳って3%ぐらいしか使われていないって言われているから、残り97%あるんやったら、絶対に覚えたろうと思ってて、まぁ、結構その辺でこう「あー」ってなってリハビリとか、やらん人って多いと思うねんけど、

母:でも、もったいないよな。

僕:もったいないよな。で、俺って結構なんやろ、一般常識ってものすごく嫌いで、なんかたとえば、「もう治りません」とか「無理です」ていう話しあるやんか、脳幹出血とかでも、でもそれは統計的にその人らが無理なだけで、もしかしたらその人らの努力量とかが少ないから無理なだけであって、俺は頑張ればいけるんじゃないかと思ってやったから、じゃ実際ここまで回復したから、あんまりその多数決の意見にはあんまり従わへんかったし、お医者さんの意見も悪い意見はあんまり聞かんかったかな。

母:でもそれが良かったんやな~

僕:いや、聞かんかったからといって、そのアホみたいにはむかうんじゃなくて、自分のなかで考えて答えを見つけて、結局その自分で考えれない人というのは、やっぱりなかなか難しいんちゃうかな。自分で考えて、自分の考えたことを信じれる人じゃないと、なかなかこれは克服するのは難しいんちゃうかな。キツイねんけどなこの話って、正直辛い話やねんけど、甘くないねんけど、現実はそうやと思うねん。なんか病気の克服って甘い、甘ちゃんが絶対に克服なんてできひんし、お金あっても克服なんかできひんし、やっぱり本人の気力と努力やね。必要になってくる。

僕:まぁ今日はこれくらいにしときましょうか、何かの参考になれば嬉しいですけれども、これが病気を克服した、脳幹出血と脳梗塞の言語障害ですね、克服した患者自身の生の声です。一般的な本に書いてあるものとか、先生の言っていること、リハビリの先生が言っていることとは少し違うと思うですけれども、これは本当に克服した張本人の言葉ですので、やっぱりこれを参考にして欲しいなと思って、今日こういう風にして動画に撮ってみました。はい。ではありがとうございました。
母:ありがとうございました。

母直筆の71日間の闘病記録ノート

僕がAVM(脳動静脈奇形破裂:脳幹出血)を発症した2011年1月19日から、リハビリ病院に転院した71日間の闘病記録を母がノートに綴ってくれていました。

母曰く、
脳幹出血発症した直後は、もう助からないと言われていたそうですが、必ず元通りのように元気になって帰ってきてくれる!と信じて書いていたそうです。

そして、今後同じ苦しみに会うであろう方に、このノートを公開し、家族がどんな風に患者と接すればいいのかの、教科書として伝えていこうとまで考えていたそうです。

僕は家族に本当に生きる力をもらいました。

どのようにして回復していくのかを垣間見ることができる資料となっています。

個人情報になってしまう箇所につきましては、黒く塗りつぶしておりますが、できるだけ原文を残した形で公表いたします。すこしでも看護の目安になれれば幸いです。

 

私がここまで回復できたのは、家族の支え、ドクター、看護師さん、リハビリの先生、仲間の支え・・・そして本人の努力があったからだとは思います。

本当に支えてもらった人たちには心から感謝しています。と同時に家族の支えは本当に大きかったです。生きる望みを与えてくれます。

ですから家族の方は出来る限り多くお見舞いに行って欲しいと思っています。例え通うまでの距離が遠かったとしても、落ち着くまではお願いしたいです。

急性期のときの一番の薬は「家族の面会」だと私は思っています。

【僕が経験した脳の病気②】脳血管撮影検査の合併症で脳梗塞発症

カテーテル血管撮影検査中に脳梗塞を発症!最も恐れていたことが起きてしまった
意識がある中で発症した脳梗塞!その恐怖は想像を絶するものでした

僕は2011年(当時28歳)に脳出血(脳幹出血)を発症しましたが、その原因は、脳幹部分に産まれつき血管の奇形があったようで、その奇形が破裂したことによる脳出血です。

ただ、僕の場合は脳幹出血(延髄出血)でしたので、開頭手術をすることはできませんでした。そのため、カテーテルによる手術が行われました。血管の奇形がある場所までカテーテルを潜らせ、医療用の瞬間接着剤を流し込み、血流を抑える手術をしてもらったのです。

しかし奇形は完全には消え去っておらず、微量ですが現在でも奇形部分に若干の血流が流れ込んでいます。
そのため、一年もしくは半年に一回の頻度で、MRIを用いて奇形部分の血流状態を確認することが必要、ということになりました。

ただ先ほども言いましたが、僕の奇形部分は脳幹にあります。そのためMRIを用いて撮像しても、ぼんやりとしか映らないのです。

 

カテーテル検査の打診

そこで、主治医のドクターから「カテーテル検査をしない?」と提案がありました。

カテーテル検査とは:
脚の付け根部分からカテーテルを挿入し、奇形がみられる脳血管付近までカテーテルを潜り込ませていきます。そしてそこから造影剤を噴射しCTスキャンする検査方法で、MRIやCT、レントゲン検査よりもかなり鮮明に奇形部分の血流状態が把握できるため、非常に精度の高い検査結果が得られるのです。

ただし、このカテーテル検査には「数百回に一回の確率」で、脳梗塞などの合併症を発症するリスクがある、ということについても説明がありました。

もちろんカテーテル検査は強制ではありません。カテーテル検査を拒否してMRIのみの診察でも良いですよ、とも言われていたのですが、まだまだこの先長い将来のためにも一度詳しく様子を見ておこうと判断し、カテーテル検査をお願いすることにしました。

検査前日の晩御飯は、冗談半分で「もしかすると検査でトラブルが発生してしばらく飲食ができなくなるかもしれないね。最高に旨い焼肉でも食べに行こうか!」と妻に言い、高級焼肉店に焼肉を食べに行きました。

この時点では「まさか自分が医療事故に遭ってしまうとは、まさか自分が冗談で言ったことが現実になってしまうとは」なんて全く思ってもいませんでした。

でも、まさかの事故が発生し、僕は「数百回に一回」発生するという脳梗塞を発症してしまったのです。

 

カテーテル検査当日

カテーテル検査当日の話に入ります。カテーテル検査といっても「検査」ですので比較的軽い気持ちで考えていたのですが、完全にドラマに出てくるような手術風景が目の前に広がっています。脚の付け根の動脈からカテーテルを入れるため、万一の際に血が飛び散らないように僕の周りは高さ二メートルほどのビニールで覆われました。

普段お世話になっているドクターは白衣のイメージしかなかったのに、この日は外科医の恰好をしています。しかも外科医二名体制、さらに助手数名……

検査にあたっては麻酔を実施しますが局部麻酔ですので、意識は明晰です。

カテーテル「検査」を気軽に考えていた僕は、目の前に広がるものものしい雰囲気にふれて、検査の恐怖でいっぱいになってしまいました。

もう逃げ出したい気分です。しかも、実際にカテーテル操作をしているのはまだ新米のドクター。主治医にいろいろとアドバイスを受けながら操作しています。

ディスプレイも10台くらい並んでいて、いま僕の身体のどこにカテーテルが入り込んでいるのかも分かります。あまりの緊張で、このときばかりは逃げ出したい、「幽体離脱してでも逃げていきたい」気持ちでいっぱいでした。

検査を開始して十分後。

「今、脳内にカテーテルが入りましたよ」と言う主治医の声がしました。
「僕の脳内にカテーテルが!(冷や汗)」

15分ほどかけて、造影剤を注入してのCTスキャンが行われました。

その時、「上西くーん、もうすぐ検査終わるからねー、今のところ奇形はちゃんと接着されているから大丈夫だよー、最後にもう一発別の角度から造影剤を入れて終わりにするからね~」という主治医の声が聞こえました。
僕は内心「あぁー、もう早く終わってくれー」とつぶやいていました。
ところで、さっきも言いましたが今回の検査でカテーテルを操作しているのは新米のドクターです。


主治医の声が聞こえた次の瞬間、頭に「ピキッ!」という音が鳴り響きました(たしかに鳴り響いた気がしました)。 頭のなかに音が鳴り響いてすぐに、ひどい頭痛を感じはじめました。

術後すぐに、「先生、頭が痛いです!」と主治医に告げました。僕がそう告げると、検査を担当したドクターも、周囲のスタッフも焦り気味になり、少し慌ただしい雰囲気になりました。

頭痛を感じながらも何気なく眼鏡をかけた僕は思わす「えっ、冗談でしょ!?」と口に出してしまいました。
「えっ?これ僕の眼鏡ですか…、全然ぼやけて見えないんですけど…」という状態だったのです。しかも、検査後は病棟に移るはずなのになぜかMRIの部屋に移されました。

MRIが終わってようやく僕の病室に移してもらったのですが、その頃にはもう頭が割れるほどのひどい痛みに襲われていました。
鎮痛剤を飲んで若干マシにはなったんですが、視力がおかしくなっている。ボンヤリとしか見えない、眼鏡をかけているのに「0.01」くらいの視力しかないんです。

その後、僕は別室に呼ばれました。

いつもの主治医が申し訳なさそうに、
「申し訳ない。脳梗塞を発症させてしまった。本当に申し訳ない。」

そのときの診断説明書です

2013年3月12日 カテーテル検査_説明書(脳梗塞発症)
2013年3月12日 カテーテル検査_説明書(脳梗塞発症)

しかも「どれくらい回復するかは様子をみてみないとわからない」って、、、

こう言われたとき、僕はものすごく悔しくて腹立たしい気持ちになりました。
僕の人生どうしてくれるの?視力がはっきりとしない状態で一生過ごさないといけないの?これからの長い人生、僕はどう過ごしていったらいいの?どうしてくれるの?

声にこそ出しませんでしたが、僕は内心そう思いました。とても悔しかったです。別室から病室のベッドに移りましたが、やっぱりまだ頭が痛い。頭痛に苦しんでいると、カテーテル検査を実際に担当した新米ドクターが来て、僕に謝罪しました。

「本当に申し訳ない」

僕は本当に腹が立ちました。正直、ドクターを怒鳴りつけて ぶんなぐりたい気持ちでした。

でもね、もう過ぎてしまったことはどうしようもない。いま僕の命があるのは主治医のおかげだし、新米ドクターもわざとやった訳じゃない。医療の発展には多少の犠牲は必要だと、自分で自分を納得させました。

そして「人を責めるのはやめよう。今日の出来事はまだ未熟な僕に神様が与えてくれた試練なんだ!だからまた僕が頑張って治せばいいんだ!」と、そう心に誓いました。

妻は僕が検査入院中に脳梗塞になってしまったことを知って仕事を途中で早退し、僕の病室に泣きながら飛んで来てくれました。いろいろ話している内に、僕ならまた復活してくれる、と妻も信じてくれたようで、僕の闘病生活を支えてくれると約束してくれました。

 

視力力が落ちたことよりも、さらに重大な障害

「はぁー、また入院生活か~」と落ち込んでいた僕ですが、数時間経つと大分気持ちの整理もできてきました。

僕自身、自分でもすごい性格だと思っているのは「過ぎ去ったことは、あまりクヨクヨしない」というところです。
検査中に脳梗塞を発症してしまったその日の晩であっても、「さて、じゃあどうやって視力を回復させようか」と考えていたくらいですから。ただね、さすがにその晩に血の気を引くような出来事を経験しました。

それは、妻に「今日は来てくれてありがとう!」とメールを打とうとしたときです。普段から触っている携帯の文字が、なにがなんだかまったく分からなくなってしまったんです。

喋ったり、聞いたりすることはできるんですが、文字がまったく読めなくなったのです。ひらがなも読めません、漢字なんてもってのほかです。自分の名前をひらがなで書くことすらできなくなりました。

「今日はありがとう」という文字が、「شكرا لهذا اليوم」というように、アラビア語かなにかのように見えてしまうんです。
これには正直驚きましたし、ショックも受けましたね。たまらなくなって、ナースコールを押して「文字の識別ができない」ことを伝えると、主治医が飛んできて「大丈夫!また頑張ろう!」と背中をさすってくれたのを覚えています。

一晩寝て起きたら文字を思い出せるんじゃないか、と期待しましたが、翌朝になっても症状は改善されません。相変わらず文字が一向に分からないんです。

「これはどうしたものか」と悩みましたが、とりあえず文字を覚えないと何も始まらないので、妻に「絵本」を買ってきてもらいました。すべて「ひらがな」で書かれた絵本です。小学生の低学年の子供達でも読める内容の本なのに、僕は一文字も読めません。こうなると、こんどは読めない自分に段々とイラついてくるんですが、妻が根気よく一文字ずつ教えてくれました。

僕「こ」
妻「それは、『い』やで」
僕「えっ、本当に!?」
僕・妻「あ、い、う、え、お……」
このように一文字ずつ覚えなおしました。

そうすると次第に読めるようになってきました。
すらすら読めるようになるには2週間ほど時間が掛かりましたが、まったく記憶が無くなったと言うよりは、「読むたびに昔の記憶が結びついてきた」感じに近かったと思います。

3週間ほど入院生活を送りましたが、あまりにも入院生活が退屈なので早々に退院させてもらうことにしました。
退院後は図書館に行って、ひたすら本を読みました。退院した時点で小学6年生くらいの漢字まで覚えることができていたので、ビジネス書をメインに読んでいました。

1ヵ月ほどそういった生活を送っていると、ある程度言葉を覚えることができるようになりましたので、職場に戻りました。復帰直後は、普段からお世話になっている先輩の名前を急に忘れてしまったり、言おうとしたことが急に思い出せなくなってしまったりと、高次脳機能障害の症状がでてしまいましたが、仕事が終わってからもコツコツと本を読んで、できる限り脳に刺激を与えることを続けました。結果的には職場復帰から半年後くらいには、元通りにまで回復できたと思っています。

 

失語症には小学生が使うドリルを使っての文字の書き起こしや、音読が良い!

脳梗塞によって右脳の4分の1を損傷し文字の読み書きが一切できなくなりました。自分の名前すら「ひらがな」「漢字」で読むことも書く事もできなくなったのです。

早速家族に、小学生が使うような絵本や漢字ドリルを買ってきてもらい、ずっと勉強をしていました。
とはいっても、この段階では一文字も読むことができませんので、妻立ち合いのもと「あ、い、う、」といったように、一文字ずつ声を出して覚えるようにしました。

5日ほどで、徐々に読めるようになってきました。感覚的には完全に脳内から言葉が消えたのではなく、リハビリをするたびに過去の記憶と結びついていったというイメージに近いものがあります。

絵本が読めるようになってからは、小学生が勉強する漢字ドリルを買ってきてもらい、暇があれば病室のベッドの上で書き写しました。

僕はこの文字の書き写しが、一番効果があったと思います。というのも、文字の書き起こしは、目、手、指、顏、空間認識といったように、たくさんの神経を同時に使うことができるからです。

なぜ、僕は脳卒中による意識不明・昏睡状態から目覚めることができたのか

僕は、2011年(当時28歳)に、脳動静脈奇形破裂(AVM)による脳幹出血(延髄出血)を発症した際に、数日間ほど昏睡状態となりました。

ですが、これから紹介する方法を家族がやってくれたお陰で、早期に目覚めることができました。

意識不明状態というのは、家族からしたらとても心配なことと思います。

もちろん、人によってはこの記事の内容は合わないかもしれませんが、情報は一つでも多くある方が有利になると思いますし、参考までに読んで頂いた上で自己分析しながら、ご自身なりの法則を見つけていって下さい。

 

「音」は届いている可能性が高いと言われている

人間の機能の中でも『耳(聴力)』というのは、原始的な機能らしく、たとえ意識がなかったとしても「音」は届いている可能性は高いとのことです。

僕もすべての声や音が聞こえていた訳ではありませんが、思い出すと音くらいしか覚えていることはなかったかなと思います。

 

好きな音楽を聞くことによって、脳波に良好な反応が…

早く回復して欲しい一心で、いろいろと目を覚ますきっかけ作りを試みていた妻。

そんなあるとき、僕と同じように脳の病気で意識不明状態の人が、好きな音楽を聞かせることで、意識を取り戻し始めたという情報を得ます。

早速、耳にイヤホンを挿して僕が好きだった音楽を数時間に渡ってかけてくれました。
(このとき、曲名までは分かりませんでしたが、何か音楽が流れているなっていうのは分かりました。)

またとある脳神経研究チームの発表では、

名前を呼んだときの対象者の脳波を分析した結果、連続した音よりも好きな音楽を聞いた時の方が、より多い割合で脳波の応答が確認されたとされています。

さらに研究チームは、「音楽を聞かせたときの弁別応答があるときは結果がよりよいという関連があるように思われた」と報告しています。

これらの結果から研究チームは、「おそらく音楽が個人の感情に関わっていることにより、覚醒および/または意識回復が促されている」と考えています。

音楽は、意識障害の状態にあっても心に届きやすいのかもしれません。

 

音楽を聞かせるには30日間の無料体験ができる「AmazonMusic」がおすすめ

妻は、僕は好きなアーティストの音楽を聴かせるために、「iPod」に音楽を入れて聴かせてくれていました。ただ、現在はスマートフォンアプリで簡単に音楽を聴くことができる時代になりました。

その中でもオススメなのが、30日間の無料体験ができる「AmazonMusic」です。

Amazon Music(アマゾンミュージック)は、Amazonが提供する音楽配信サービスのことで、年間費4,900円(税込)または月間プラン500円(税込)の『Amazonプライム』に申し込むことで利用することができます。なお、30日間の無料体験ができるので、無料期間内に解約してしまえば費用は発生しません。

Amazon Musicを聴く環境にするには、スマートフォンやタブレットにAmazon Music専用アプリをインストールすることで視聴できるようになります。

脳の病気は時間勝負な所があり、昏睡状態が長ければ長いほど、リハビリの開始時期が遅れてしまい、後遺症が残ってしまう可能性が高まります。

ですから、可能性があることはすぐに行動することが大切なのです。

物は試しで無料期間内だけ使ってみることをお勧めします。

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病気をしたのは他でも無い自分のせい

僕は先天性の病気で脳動静脈奇形破裂(AVM)に伴う脳幹出血を発症したそうです。この奇形は年を重ねることに破裂のリスクが高まっていくそうで、ちょうど僕のように30代くらいに破裂してしまうことが多いようです。

ただ、生涯破裂することなく生を全うされる方の方が多いそうです。

たしかにMRIの画像を見る限りでも脳幹部分に奇形がありそこから出血したのは素人目にも分かります。

だけど、この脳動静脈奇形を破裂させたのは、間違いなく僕に原因があったと思います。

こんなこと家族には言えませんが、僕は自殺願望があったのです。

当時は若かったこともあり、テレビでみる芸能人やセレブのように優雅に過ごし、フェラーリといった高級車に乗れない自分に対して、すごく嫌気を刺していたのです。

そして、結婚相手は芸能人や女優さんといった人と結婚したい。いや結婚できると思っていたんです。

でも、何一つ達成できていない。
この達成できていないのは、僕が生まれた環境が悪いんだ!何で僕はこんな風に生まれてきたんだよ!庶民ではだめなんだ!僕は特別な人間なんだ!

そう本気で思っていたんです。とんでもない大バカですよね?笑っちゃいますよね。本当、自分でもバカだなぁーって思います。

だけど、当時の僕は大真面目に考えていて、こんなのだったらいっそ死んでしまった方がましだ!と考えるようになってきたのです。

そして付き合っていた彼女(現在の妻)と結婚に向けて進めていくのですが、頭の中では現実をよく見ないといけないと分かってはいながらも、

「本当にこのままでいいのか?」「芸能人と結婚するんじゃないのか?」「何言ってるの?現実を見なさい」「あなたと結婚しても良いよって言ってもらえるだけで幸せじゃないの?」と、常に頭の中に悪魔と天使がいて僕に話しかけてくるのです。

結婚式場の仮予約をしたときには、もうピークに「本当にいいのか?」「お前の人生それでいいのか?」と悪魔がささやいて頭の中がおかしくなってしまったのです。

その結果、自己啓発の本で有名な【思考は現実化する】の通り、本当に心の底から日常的に考えていた通りのことが起きてしまったのです。

脳卒中のことを英語では、『STROKE(ストローク)』と表現します。
その意味は、「神の一撃」。ある日…前触れもなく、まるで天罰であるかのように襲い、非力な人間にとっては…どうしようもないもの。この言葉には、そんな意味が込められています。

まさしく僕はこの意味の通り、天罰を食らうことになったのです。

本当に死ぬかと思いました。
何で僕がこんな目に合わないといけないんだ!!と毎日思いました。

でも、周りの人が僕に勇気をくれるから。
あんなに邪険に考えていた妻が「何があっても、ずっとずっといるから・・・」って言ってくれるから

何度も何度もくじけそうになって、逃げだしそうになったときにはまた優しく応援してくれるから・・・
僕は「優しさ」と「強さ」をもらっていきました。

その度に僕は生きていることに感謝し、支えてくれて人に感謝をし、見えているものすべてに感謝をし始めました。
そうして少しずつまともな人間に近づいてきたのです。その結果、今では子供二人を含めた家族ができ、もうあの時のようなことは1ミリも考えることがなくなりました。

神様は僕に人格を磨くための試練を与えてくれました。
少し手荒い方法だったかもしれませんが(笑)、本当にどうしようもなかった僕の考え方を一新させるには、これくらい強力なものでないといけないと考えてくれたのだと思います。

ですから僕はこの病気に感謝しています。
神様、大切なことに気づかせてくれて、ありがとうございました。と、

 

会社のメンバーからの応援メッセージ

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■妻からのメッセージ

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僕は、死んでしまいたいと自分自身を追い詰めたという大きな「失敗」をしました。
毎日が苦しくて、辛くて、生きることを自分で「終わりにしよう」と思いました。

でも・・・、

「周りの人々のおかげで、こんな自分でも大事に思ってくれる人がいること」を実感し、生きることをやめずに「幸せになる努力」を続けれるようになりました。

僕は、体のバランス感覚があまりよくありません。
手も痺れますし、片頭痛や目の眼振で苦しむこともあります。

でも、今、この病気に出会ったことで、本当に、幸せいっぱいです。
人生で、今が一番幸せです。

ですから僕は、この「病気」に感謝しています。

大切なことに気づかせてくれて、ありがとう・・・

首元にある気管切開の後は、僕にとっての「宝物」です。

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いつも僕に、「手足が当たり前に動くこと、呼吸ができていることの幸せ」を教え続けてくれるからです。

今の状況はあなたにとって、「すべて必要なこと」だから起きているのです。

だから「ピンチはチャンス!」だと思って「楽しく生きる努力」を続けてほしいです。

【僕が経験した1回目の脳の病気】脳動静脈奇形破裂による脳幹出血

2011年1月20日

僕、上西信也は大阪府在住の27歳。
システムエンジニアとして、営業からシステムの設計、プログラミングをしながら忙しくも充実した日々を過ごしていました。ちょうどその頃、2年ほど付き合った彼女(以降妻)と結婚することを決め、結婚式場探しをしていました。

そして、いくつかの式場を巡ったうち、大阪の難波にある結婚式場が、立地も条件も良かったので大安の日で仮予約をしました。その日は遅くなったので、ファミレスで夕食をとり、結婚式に向けて誰を呼ぼうか、ドレスやお花、料理はどのグレードにしようか。なんておそらく歴代の結婚式をあげてきた人たちと同じような会話をしていたと思います。

けれども、僕たちは計画通りいかなくなってしまったのです。なぜなら、その会話が終わった6時間後に、僕は脳動静脈奇形破裂(AVM)による脳幹出血を発症してしまうからです。

 

脳幹出血発症

帰宅するとすでに日付は変わっていました。翌日から仕事でしたが、結婚式の仮予約をしたあとでしたので、若干興奮状態にあり簡単には寝れそうにないなと感じていたので、睡眠薬代わりに赤ワインを飲んで寝ようと考えました。

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何口か飲んでいるうちに良い感じに眠気が出てきました。

「ふぁー。これで今日もぐっすりと寝むれそうだぁ。」

そう思ったとき、急に風邪のような倦怠感がでてきました。

ですが、ちょうどその時は1月だったので「寒い中をずっと歩いていたから風邪でも引いたのかな?」と、特に心配することなく再度ベッドに入りました。

しかし、容体は分刻みで悪くなっていきます。そしてついには、吐き気もしてきたので、ベッドから降りてトイレに行こうとするんですが、平衡感覚がなくなったのか、壁伝いにしか歩けなくなっていたのです。

「これは悪酒にあたってしまったな」と赤ワインを飲んだことを後悔しました。

その後やっとの思いでトイレに辿り着きますが、とくに嘔吐することもなかったので、再度ベッドに入ります。

ですが、体調はさらに悪化していき、うだされるようになってきます。そして夢なのか覚醒してしまったのかわかりませんが「斧を持った死神が僕を切りつけたのです!」

「ズバッ!」

その瞬間、体に雷が落ちたような衝撃が走り、手足が硬直し始めました(まるで感電しているような感覚でした)。

一瞬でこれはただ事ではない!ことを察しました。幸い当時は、実家暮らしでしたので、隣の部屋にいる母に携帯で助けを求めます。

母が眠たい目をこすりながら「どうしたの?」と聞き、僕は「ただ事ではない、すぐに救急車を呼んで!」と母に伝えます。

母は訳も分からず、救急車を呼んでくれました。十分ほどすると遠くの方から、救急車のサイレンの音が聞こえ始めます。

ダダダダダっと救急隊員が入ってきて、「どうしたのですか?大丈夫ですか?」と話かけてくれます。

僕は「いや、ちょっと赤ワインを飲んでから・・・」と伝えようとするのですが、すでに呂律が回っていなくて何を喋っているのか伝わりません。

すると、救急隊員は慣れた手つきで僕の後頭部を触り「おそらく脳出血ですね。すぐに搬送します」と一言。

僕はその一言で、一瞬にして頭が真っ白になってしまいました。

夢であって欲しい、夢であって欲しいと願いますが、残念ながら夢ではありません。

 

脳が壊れていく

もうこの時点で、僕の体は僕の意志通りに動かなくなっていました。少しでも腕を動かそうとするなら、天井めがけて腕が上がってしまったり。足も自分の意思とは違う方向に動いてしまうのです。

歩くことはおろか、立ち上がることすらできなくなっていました。しかたなく、救急隊員に、抱き抱えられるように担架に乗せてもらいます。

救急車に乗せられる前にちょうど夜空がぱっと見えました。

「あー、この星空を見ることができるのもこれで最後か・・・」と悲しくなったのを覚えています。

救急車に乗せられるやいなや、酸素マスクを口に当てられました。搬送先の病院はすでに決まっていたようで、すぐにサイレンを鳴らして走り始めます。車が走るたびに揺れますが、その揺れが僕の脳をさらに壊していきます。

突如、ダンプカーに踏まれたかのような強烈な頭痛が僕を襲いました。そして、心臓が破裂するほど鼓動しはじめ、目もグルグルと回りはじめました。さらに体が燃えるように熱くなってきます。酸素マスクを当てられているはずなのに、ぜんぜん酸素を吸うこともできなくなり意識が遠のいてきました。

救急隊員にもう駄目だと目で合図を送ると、ペンライトを目に当てて瞳孔を確認しはじめました。医療機器があちこちで警告音を発しているのが聞こえます。

「もう限界だ。これ以上は持たない・・・」

ふと隣を見ると、悲痛なまなざしで母が僕を見ていて、僕の手を握り締めながら、「信也!信也!信也!」と名前を言っているのがかすかに聞こえていました。

でも、僕は手を挙げることも、うなずくこともできなくなっていました。
僕は母に「ごめんよ。子供が先に逝くなんて、なんて親不孝な子供なんだろうね。今までありがとう・・・」そう言い残して意識を失ってしまいました。

その時の様子を母がメモしてくれていました

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社会復帰は絶望的

それから2週間ほどは昏睡状態だったため、母や妻から聞いた話を元に書きます。

【参考】昏睡状態を抜け出すには?

僕が運ばれた病院は隣町の中規模の町病院。CT画像検査の結果、クモ膜下出血との診断をされたようです。それと同時に「ウチの病院では処置できない」とも言われ、より大きな病院への転院を勧められたそうです。

結局、発症から6時間ほどは何も処置できずにいたことになります。また病院から病院へ救急車に乗って転院です。

 

病名判明-脳動静脈奇形破裂(AVM)

「病名がわかりました。これから説明しますので、お母さん、奥さんは診察室にお入りください」と転院先の主治医(後の命の恩人)が言いました。

「結論から言いますと、息子さんは、クモ膜下出血ではありませんでした。」

クモ膜下出血=1番最悪なもの

そう思っていた母と妻だったので、クモ膜下出血でないことを知り、母と妻は少しだけほっとしたようです。

しかし、主治医は間髪いれず
「クモ膜下出血ではありませんでしたが、安心は一切できません。息子さんは脳動静脈奇形破裂による脳幹出血です。脳幹出血は、クモ膜下出血と同等、もしくはそれ以上に危険な病気です」

「命が助かるだけでも幸いだと思ってください。ですから、ベッドから起き上がることはおろか、家に帰ることは、非常に難しいとこになるでしょう。後々は施設での生活になることも想定してください。」

このような絶望的な説明を何度も聞かされたようです。妻は、相当なショックを受けて泣き崩れてしまったそうです。

 

妻のお母さんの一言

「一生植物人間かもしれない。そんな人と結婚。どうしたらいいの」

そんな妻に対して、妻のお母さんは、「何言ってるの!婚約を決めた人でしょう!私だったらずっと一緒にいるけどな!」と一喝したそうです。

お母さんは妻が高校生のときに離婚して、スナックのママとして働き、子供二人を育てた人です。苦労して育てたかわいい娘です。しかも僕との出会いは一回だけ。結婚したとしても植物人間のままの可能性が非常に高い状態です。

その後、お母さんの一言で、妻は毎日面会に来てくれました。

リハビリがうまくいかずに喧嘩をすることもありましたが、来てくれるたびに嬉しくて頑張ることができました。それもこれもお母さんの一言のおかげです。お母さんはお見舞いが一番の励みになると知っていて、だからそのように言ったのでしょうか。

真意は語ってくれませんが、本当に助かりました。

 

脳幹出血発症当日の診断説明書

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肺炎、そしてベッドからダイブ

脳幹出血発症から5日後、40度近くの高熱を手続けてしまいます。

医師の診断によると、痰が肺に入ってしまうことによる誤嚥性肺炎を発症しているとのこと。脳卒中を発症すると、僕のように肺炎になる人は少なくないそうです。

ただ、肺炎は、2011年に脳血管疾患を抜いて、日本人の死因の第3位になっています。ただでさえ脳幹出血で死にそうな思いをしたのに、肺炎にかかってしまうという、ダブルの辛さを経験することになったのです。

そしてあまりにもしんどさに、頭がおかしくなりベッドから降りてトイレに行こうとし始めたのです。
その当時の僕は左半身が麻痺している状態で、かつ寝たきり状態での生活が続いていたので、筋力もだいぶ落ちていました。

ベッドの手すりをよじ登るようにして降りようとしたとき、僕はまるでベッドからダイブするような形で落下してしまったのでした。

「ドスン!」

ものすごい落下音と、人工呼吸器が外れたことにる警告音が鳴り響きました。

異変に気付いた看護師さんが、すぐに走って駆けつけてくれました。

「今後は絶対このようなことはしないこと!」と、厳重注意され、両手両足に体を動かしすぎると警報がなる装置を装着されることとなったのでした。